interview

松本零士

今や全世界に広まっている日本の漫画・アニメーションの先駆者として
『男おいどん』『大四畳半シリーズ』の下宿・四畳半の物語から
『銀河鉄道999』『宇宙戦艦ヤマト』などでのSF・大宇宙の物語まで
ジャンルを超え、幅広い作品を生み出し続けている松本零士
その作品の中には常に熱いヒューマニズムが描かれている
そんな彼を育んだ幼少期〜青春時代を訊く——

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——先生が漫画に興味を持ち出したのはいつ頃からだったんですか。

 私の父親がパイロットだったんで、戦争中は飛行場のある明石に住んでいたんですね。父親から空を飛ぶ話をずっと聞いていたので、私自身もよく飛行場に行って離発着するのを見ていました。そんな頃に『くもとちゅーりっぷ』という、国産のミュージカル・アニメーションを観たんですよ。私が5才の時ですが、これには大きく影響されましたね。実はこの映画、手塚治虫さんと同じ日に観てたと分かって驚いたんですけどね。あの方は一回映画館に入ったら一日出ないから、おそらく同じ時間に同じ場所で観ているんですよ。
 それと、父親の趣味で家に35ミリの映写機があったんですよ。可燃性のフィルムを子供が回して『ミッキーマウス』や『ポパイ』、『ベティ(・ブープ)』なんかを襖や壁に映して観てたわけです。そういうのを通して漫画やアニメーションの概念を学んだんだと思いますね。

——ああ、最初からアニメーションを意識されていたんですね。

 そうですよ、ゆくゆくは漫画を動かしたかったんですよね。もちろん漫画も松本かつじ氏や『タンクタンクロー』『日の丸旗の助』『冒険ダン吉』『のらくろ』といった本が好きで読んでいて、そういった絵を家中の壁に描いていました。見つかると怒られるから掛け軸の後ろ側なんかにこっそり描いたりしてね。昭和19年に四国に疎開することになるんですが、その時に母親が掛け軸を外して腰抜かしてましたよ(笑)。
 四国に行ってからは山野を駆け回り、川で泳ぎ、エビを捕り、……ハチの子を喰いたい一心でスズメバチの巣まで襲ってましたね。何回返り討ちに遭ったか分からないけど(笑)。そうやって大暴れしていた傍らで漫画も描き続けていました。

——そして終戦を迎えるわけですね。

 戦争に負けて日本中がゴチャゴチャになっちゃってね。でも金はなかったけど、親父が(戦地から)無事に帰ってきてくれたからコンプレックスは何もなかったですね。「ウチの親父は空を飛んでたんだ、世界一の親父なんだ」って信じて疑いませんでしたから。それに、終戦後に移り住んだ九州・小倉の倫理観では、他人を容貌、風体、金のあるなしで笑うのが一番悪いことっていうのが原則だったんですよ。それは子供にも染み込んでましたね。我々はああいった時代から起き上がってきてるから、今、不景気不景気って言ってるのなんて物の数じゃないですよ。あの頃は食う物がなかったんだから。
 それから亡国の悲哀ね、国が破れるということがどういうことなのかということは、子供心にもイヤっていう程味わいましたね。B29の大群に追われ、機銃掃射も受けている、その記憶がまだ生々しい内に占領軍がやって来て、そんなるつぼの中で暮らしていたんですよ。あの頃の私たちの扱いって、本当に動物以下でしたからね。
 と言っても、ひとりひとりの兵士に対しての憎しみは起こらないですけどね。中には優しい人もいるわけでしょ。ただ占領軍全体となると「絶対に施しは受けない」っていう気概は子供ながらに持っていましたね。占領軍兵士が投げてくるキャンディーなどは踏み潰して歩いてましたから。
 今でも、もちろん戦争はイヤですよ。戦地から生きて帰ってきたのに家族の方が全滅しててね、鉄道自殺をした若い兵士の死体を二度も見てますからね。また、戦地から息子が帰ってこなかった友人の家ね、仏壇の前でそのお母さんが泣き崩れてたのを見たりして。戦争はイヤだし、ああいう悲劇はイヤだけど、負けるのはもっとイヤだという思いが自分の中にあるわけ。今でもそういう気持ちは残っていますね。

——そういった気概といったものは先生の描く登場人物からもすごく感じますね。

 ただ、彼らが持ってきていたアメリカンコミック、俗に言う10セント・コミックのたぐいが山ほど手に入ったんで、それは勉強になりましたね。異文化との接点というものを体験して、日本の漫画と比較をすることができ、文字通り世界中の文化の対比に気が付くことが出来たわけです。
 この頃になると自分の描く漫画にも変化がありました。それまでは他の漫画家の絵を真似をしたりしてるでしょ、でもいくら真似をしても自分の絵は冷たく感じるんですよ。どんなに上手くトレスしてもダメ。その時に、漫画を描くといっても実物を観て描かなきゃダメなんだと気付きましたね。写真にしろ絵にしろ単眼でしょ、実物を自分の目で見るのは両眼だから立体感も分かるし奥行きもある、全然違いますよ。中学生の時に『冒険記』という、後にハーロックの原形になった漫画を描いたんですが、それがいくらかまともな絵になった最初の作品ですね。
 小中学生の頃、荒木俊馬博士の『大宇宙の旅』、そしてH・G・ウェルズの『生命の科学』という全17巻の本と出会ったんですが、これは衝撃でしたね。私はH・G・ウェルズのことをSF作家だと思ってたんですが、正体は学者かと。空想科学を物にするには学者並みの知識の集積がなくては無理なのかと思い知って、その時の恐怖感というのはすごかったですね。
 それからは、漫画ばっかり読んでる場合じゃないということで、背伸びして古本屋に行っては流体力学とかロケット工学とかね、そういった本を分かろうが分からなかろうが片っ端から読んでいました。それも後で随分ためになりましたね。

——漫画家になるには、絵にしても内容にしても漫画から真似しているだけではダメだということなんですね。

 それから高校一年の時に『蜜蜂の冒険』という漫画を描いて『漫画少年』の新人王に応募しました。これは学期末試験の最中に描いていたもんで、学校の成績は惨たんたるもので危うく留年させられるところでしたけどね。その時はさすがに「これはいかん」と思ったんですが、その『蜜蜂の冒険』が運よく新人王を受賞してデビュー出来たわけです。

——そして高校を卒業し、いよいよ東京に上京するわけですね。

 私は高校生の時から毎日新聞・西部本社で連載や読み切りを描いてましたし、18才で高校を卒業した年から東京の商業雑誌で連載を持ってたんですが、毎回原稿を東京まで航空便で送ってたんですよ。だから東京の出版社から「まどろっこしいから、一刻もはやく東京に勇姿を現したまえ」という手紙が来るわけね。でも金がなかったから「勇姿を現したいのでありますがお金がありません。つきましては原稿料の前借りは出来ませんでしょうか」という手紙を書いたら「来れば渡す」って返事が来て。仕方ないから買い集めていたレコード、ステレオの装置やその他を全部質屋にぶちこんで、東京行きの切符買ったら700円しか残らなかったんですよ。だから今でも、「元を正せば700円だったんだ」っていう気持ちはありますね。

——当時、九州から東京に出て行くというの
は大変なことですよね、家族も心配したんじゃないですか。

 そりゃあ心配はしたでしょうね。その当時は九州から東京まで鉄道で一昼夜かかってましたから。しかも「俺は二度と帰らん!」と宣言して出てきたもんですからね。18歳の倅がそんなことを言って家を出たら親はどんな気持ちになるだろうと。むごいことを母親に言って出てきてしまったと思いましたけど、でもそれも覚悟の上だったんですね。七人兄弟で両親もいて、ウチは非常に貧しかったですから、「弟たちは俺が大学に行かせる!」と大見得を切って出てきた手前、おめおめと帰るわけにはいかないですよ。そもそも汽車賃払ったら700円しか残らなかったから、もう帰ることも不可能でしたからね。

——上京してからは、実家に仕送りもしていたそうですね。

 ほとんど送ってましたね。稼いだ金の99%を家に送ってましたから。弟たちの学費はいるし、家のことが心配でね。だから東京に出てきたばかりの本郷での下宿時代は、本当に一文もないような生活をしていました。
 ただ、友達だけは沢山いましたからね。同じ下宿の友人や、近くに住んでる漫画家の仲間たち、受験のために上京してくる地元の同級生。男女問わず入り乱れて遊んでましたよ。
 明日をも知れない自由業だから「自分の青春は暗黒かも知れない」なんて思うじゃないですか。お金もない、仕事もない、明日の俺は、一ヶ月後の俺は、一年後の俺は……なんてひとりで考えていると布団の中で奈落に落ちるような気分に襲われるんですよ。ですから昼間はお互いにだべり合ってね。「俺は漫画映画製作会社の社長になるんだ」とか「俺は大病院の院長になるんだ」とか、デザイナーになる、大画家になる、小説家になるって、お互いに大ボラを吹いて励まし合ってましたね。
 それでも十数年経ってみると、それぞれがみんな夢に手をかけて何とかなりつつあるんですよ。お互いに「よかったなーっ」て肩を叩き合ってね、それがどんなに嬉しいか。そういう打算のない友情で結ばれた友達、それが本当の親友なの。それは大人になってもまだ続いていて、小学校以来の同級生、下宿時代の友人、みんなこの年になっても連絡が取れるんですよ。それで何かあると「大丈夫か?」ってすぐに電話をかけてきてくれてね。
 漫画家なんていうものは、連載がはじまったり打ち切られたりを繰り返しながら綱渡りしていって、何とかなっていくようなものなんですね。途中で志を捨てたり諦めたりしたらダメなの。だから心臓に毛を生やす必要があるんですよね。そういう意味では私は友人に非常に助けられましたよ。言うなれば私は友人という巨大な根っこに支えられた木なんですね、だから絶対に倒れませんね。
 あとは文字通り「俺の旗」っていうことですよ、「人からなんと言われても構わない。俺は刀をペンに持ち替えた永遠の浪人なのだ。路傍に屍を晒しても悔いはない」この覚悟が必要なわけ。これはもう、全ての創作者に通じますよね。

——だからこそ、SF漫画家の第一人者である松本先生ですが、その作品の中で科学技術だけではなく、きっちりと人間ドラマが描かれているわけですね。

 そうですね、あとは「実体験」ということですよ。もともと私は家の中にじっと閉じこもって描くタイプの漫画家ではなかったですからね。外で存分に暴れてその後に漫画を描いて、余った時間で宿題をやるっていう、そういうタイプだったわけ(笑)。それが大人になってからも抜けないで、世界中暴れ回ってるんだから。
 やっぱり何でもこの目で見ておく必要があるんですよ。この目で見ると、なるほどこれだけの広がりがあるのだと分かる。そうすると広がりを持って描けるわけ。この目で見て、体験して、触って、温度、味、臭い、気圧……そういう物を実体験してると描く時にも断固とした確信を持って描けるんですね。
 それに世界中を飛び回ってると色んな出来事に出会います。そこで得た体験って言うのが作品を描く時に「俺は嘘を描いていない」っていう自信につながるんですね。
 ただ、私がひとつ嘘を描いてるとすれば「地球」ですね。残念ながらまだこの目で見ていないですから。自分の目で地球を見るまでは本物の地球は描けないですよ。実際に見ることが出来たらもっとマシな地球を描けるようになると思うんですけどね。

……以下、松本先生の名作『男おいどん』の」誕生秘話や、世界に進出していく漫画、アニメーションについてなど読み応え満点のロングインタビューは『ルーフトップ★ギャラクシー』本誌にてチェック!

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